尻穴の記憶#1

「気をつけて帰れよ。」
「うん。ありがとう、先生。」
浩の傷ついた手を丸ごと包む大きな手。
ジャージ姿の男が、いかつい顔に似合わず崩れるような笑顔をにっこりと見せる。骨太の中年にしては髪のほとんどが白髪になっている。
電子的な音と光があふれる雑踏の中で、父性愛の優しさと温かさのこもった先生のまなざしに少年の心はつかの間癒されていく。
夜の繁華街を抜ける手前で、ポケットから「高木鉄男」の連絡先が書かれたくしゃくしゃの紙を取り出す。これを見ると浩の胸は無条件に温かくなった。
(俺はあの先生に何度救ってもらっただろうか。なのに、俺って・・・!)
少年の目が帰り道の闇を見据える。街灯のない路地。そこへ吸い込まれる目にはさらに深い闇がうずうずと宿りはじめていた。
 
「浩!!」
白い髪を振り乱しながら飛び込んできた高木の姿を見て、奥でタバコをふかしていた巨体の髭面親父が目を剥いた。
「またあんたかいな!夜回り先生!この部屋の主はワシじゃ!ずかずか入ってきなや!」
「笠松さん・・・。どうか浩を助けてやってください・・・。」
ぜいぜいと肩で息をしながらいきなり頭を下げる中年教師。
知らせを聞いて勤め先の学校から直接この事務所に急行したようだ。いつもの古臭いジャージの襟に玉の汗が光っている。
「あきまへんな。これは約束や。破ったんはガキのほう。きっちり落とし前つけてもらわなあかん。」
「浩!・・・どうしてお前、またこの人たちの縄張りに・・・。」
少年の右手はすでに鉄板に固定され、親指と人差し指の間を広げられていた。
幼さの残る青白い顔は恐怖にこわばり、左手に持たされたハンマーがぶるぶると大きく震えている。
「お願いします。もう一度だけ、この子を見逃してやってください。お願いします。」
「あかん!」
「この通りです!落とし前なら私がつけますから!」
「先生・・・!」
もはや地べたに土下座をし、身代わりになるとまで言い張る教師の姿に、浩は思わず声を上げた。胸が急速にざわついてしまう。
「せやけどなあ。ガキに指つぶささんと筋ちゅうもんが通りまへんのや。それが落とし前ちゅうんは先生かてようお分かりでっしゃろ?」
「そこを何とか・・・。お願いします。」
「もう16や。ワシらがガキに教えたったんは学校の決まり事とは種類がちゃいますねん。
夜回り先生もこれ以上は首突っ込まんほうがええ。そのほうがあんたのためや。」
組長はもうこの話にはあきたとばかりにそっぽを向くと、くわえタバコをぷかあっとふかしはじめた。
黒煙を吐き終えると、少年の横に立っていた若者をいきなり怒鳴りつける。地を這うような恐ろしい低音が打ちっ放しの白い壁にずんずんと響く。
「はよやらさんかい!なにぼけっとしとるんじゃ!」
「お願いします!この子にチャンスをやってください。彼の罪は私がかぶります!」
「・・・ほおう・・・?」
なりふり構わずコンクリートの床に頭をこすりつけて叫ぶ高木先生には、笠松の邪悪な表情が見えない。
黒く濁った目線とまともにぶつかり、どぎまぎしていたのは浩だった。
「なんしか、頭上げなはれ。先生、ほんまにこのしょうもないガキに代わってワシらに落とし前つける言うんか?」
「先生!やめてください!悪いのは俺なんです!」
声がうわずる。こういうとき、先生はいつも頑固なくらい俺を守ろうとする。おそらく今回も決して引かないはずだ。
「いや、大丈夫だ・・・。笠松さん、浩はそういう奴じゃないんです。この子にいい将来を歩ませてやりたい。
だから、どうか見逃して、私に罰を与えてください。お願いします。」
高木先生・・・。
周りの大人はクズばかりなのに、この人だけは違う。高木先生だけは俺のことを必ず信じてくれる。
心身ともに疲れ果てているはずの中年教師のひたむきな姿勢に、少年の体が一気に熱くなった。
「さようか。夜回り先生がそこまで言うんやったら・・・。おい!」
組長が先ほどの若者を顎で急き立てると、浩より少し年上の組員とおぼしき彼は急いで浩の右手を鉄板から解放した。
左手のハンマーも別の若者に易々とひったくられた。
「浩!!」
「先生!ごめん・・・!」
駆け寄る教師の分厚い胸に顔をうずめてしまった。毛玉だらけのジャージからすえた加齢臭が鼻をくすぐる。
「いいんだ・・・。早く出なさい。」
「あかんで!」
がなる組長のほうに先生が向き直る。
「ガキには先生が罰受けるとこ、きっちり見届けさせんならん。こらあくまでガキの不始末や。ええな?」
高木は静かにうなずくと、鉄板まで歩み寄り、その上にごつごつした大きな右手を置いた。
硬く決心した、意志の強い男らしい目だった。それを笠松が冷笑する。
「先生?どないするおつもりでっか?」
「いや・・・、この子の代わりに指を・・・。」
「あかんあかん!先生はカタギの方ですやんか。指つぶれたまんまで学校なんぞ行きはったら、そら大問題でんがな。ワシらかてえらい危ななりますねん。」
困惑する高木先生に笠松がにたあっと邪悪な笑みを見せた。獲物を見定めたプロの狩人の目が冷ややかに光る。
「せやから、高木鉄男先生にはガキとはちゃう方法で仕置きさしてもらいまっさ。人目に分からんよう、体の外にいっこも跡付かへんやり方でなあ。」
「分かった・・・。気の済むようにしてくれ。」
先生のきっぱりとした返事に応じて、がっはっはとビール腹をよじる組長。浩は笠松のそばに来るよう手招きされた。
「ワシの気い済むまで言うたらどえらい時間かかりまっせ。覚悟はよろしいか?」
「ああ。気が済んだら、必ず浩を解放すると約束してくれ。」
背中を伸ばし、毅然として応じる高木先生はものすごくかっこよかった。
「その約束はいっぺん守ってんけどな。ええで、先生の腹ん中にかけてもういっぺん守ったる。男同士の約束や。」
組長の答えを聞いた高木鉄男の頬がゆっくりと安堵する。一方の浩本人は、「先生の腹ん中」という一節に早くもめまいを覚えていた。
「ほな、お前ら。先生をいっちょう、生まれたまんまの素っ裸に剥いてこましたれや。」
そう静かに命じる組長の白髪混じりのごつい手が、誰も見ていない隙を狙って、そばに立つ少年の熱くたぎった部分をむんずと掴み上げた。
※実在する「夜回り先生」を侮辱するために書いた文章では決してありません。