和尚のかわや

寺にはかわやが二つある。
寺と家の間にあるのが一つ。家の者だけでなく、この山寺までわざわざ拝みに来てくださる方もお使いになる、いわばみんなのためのかわやだ。
対して、もう一つは寺の東側にあるかわやで、東司とも呼ばれる。
畑からも近く、道は狭いが本堂の裏からもまっすぐ行ける。
ここは岩鉄和尚だけが使うかわやだ。もちろん、見習い弟子である私も使っていいのだが、使わないことにしている。
造りを見れば、私や奥さんが使っている家のかわやのほうが新しい。昔からあったのは外のかわやのほうだそうだ。
和尚様は幼い頃からの習いで今も寺の東司を使うのが当たり前になっているのだろう。
とにかく、和尚はがんとして家のほうのかわやには入らない。小便でもわざわざ草履やわら靴を履いて寺から外に出ていく。
一度、奥さんが大変でしょうと気遣ったことがある。
「大変なものか!あんなせわしないところでできるか!ワシはワシのかわやを使うぞ!」
和尚はかんかんになって怒り出してしまった。だから、奥さんも私もかわやの話には触れられない。
外のかわやは古く、隙間風の寒さときたら身にこたえるほど厳しい。
寺に来る馴染みの方も、あっちのかわやへ行かないで済むようになってほんとによかった、と口々におっしゃるくらいだ。
それでも、岩鉄和尚にとっては、ワシのかわや、なのである。どんなに古くても、そして、どんなに壁の下が大きく空いていても。
 
私が外のかわやの隙間に気づいたのはここに来る前、まだ母に連れられて墓参りに来ていた頃だ。
木戸のある前側は足場を石で固めてあり、中に入るには3段ほど上らねばならない。石段より上は木の壁で高く囲われている。
つまり、前や横から見れば東司らしい、なかなか立派な造りをしているのである。
ところが、いっぺん裏側に回ってみると、床下は大きく空いていて、そこにでっかい糞桶がどんと置いてあるだけだった。
石敷きの厚みと3段分の高さが合わさって、かわやの床はちょうど私の胸辺りに来る。
それだけでも驚いたが、さらには床と壁の間に1尺よりも広い隙間ができているのだ。
裏は誰も通らない小道と深い竹やぶになっているので人に見られることはないといえばないが、しゃがんだときに尻を隠す壁が全くないのである。隙間と呼ぶにはあまりに広すぎる。
 
「和尚様。どうしてこのかわやの裏はこうなのですか?」
「こうとは何だ?」
「いえ、その、隙間が空きすぎているように思いましたもので。」
「昔からだ。」
岩鉄和尚のぎらりと光る目つきに私はたじろいだ。
「それにだ。これは隙間ではない。糞桶を畑や川に持っていくのに難儀にならぬよう空けてあるのだぞ。」
私はおそるおそる、床と壁の間を示しながら尋ねてみた。
「では、ここは?その、なぜこんなに広く空いているのですか?」
「貴様はバカか。」
まただ。岩鉄和尚の口癖が飛び出した。
「床を掃除するために決まっておろうが。前からでは段々のせいで腰を曲げねばならぬからな。」
・・・お師匠様、床を掃除した様子が全く見られませんぞ。
ほこりはともかくとして、床の穴から外れた糞の小山が幾つもそのままに残されているではありませんか。
ウジもたかるだけたかって飽きたのか、もう白くなってからからに干からびている。これは全て和尚様の仕業でしょう?
岩鉄和尚様のずぼらなお人柄を改めて思い知る私。
それでも胸を張って「床を掃除するために決まっておろうが!」とよどみもなく答えられるのだから、さすが私のお師匠様である。
「よいか。禅においては、東司こそ最も神聖なる修行の場である。心を静めけがれを清める日々の精神修行と心得よ。」
・・・でか尻丸出しで?尻からぶっとい糞を垂れながら?大粒の糞を床に落としても気づかないくせに?
思わずそんな和尚を思い浮かべてしまった。
そもそも、体のけがれ、とりわけ尻の茶色いけがれはいっこうに落とそうとさえしない、尻の臭さは日本一の四十八の大男ではないか。
それから私は、寄り合いの帰りの山道で間近に見た、和尚のでか尻から太い糞がむりむりむりと出てくるところを思い起こした。
こいつは決まりだな。これからは岩鉄和尚の清浄なる修行の一部始終をとことん拝ませていただこう。
手水も糞べらもないこの東司で、修行の果てにひねり出すけがれの証をしっかりとこの手に受け止めて差し上げよう。
畑に向かう師匠の大きな尻を見ながら、私は岩鉄という男のかわやの使い方を今一度調べてみようと考えた。
それに、この汚すぎる床もきちんと掃除して差し上げなければ。