和尚の褌を持ち歩く

岩鉄和尚の尻は日本一臭いと私は思う。
三日も取り替えない和尚の褌には、いつも尻の汚れがこびり付いている。
茶色い糞の染みがこってりと幾筋にもなってさらし布の後ろを汚している。
前袋もすごい。小便の切れが悪いのか、一面が真っ黄色になる。
それは、いつも決まったことなのだ。
越中でこれほど汚す岩鉄和尚だが、特にひどいのは祭りのときに六尺を締めたときである。
縦回しにごっそりと、糞の筋が染み付いて、それはもう臭いのなんの。
あれを手にしたときのどきどきは年にそう多くない。
 
普段は和尚の汚した越中を左のたもとに入れて持ち歩くのが私の楽しみになっている。
衣の袖を上げれば、ふわっと、親父の濃い小便と糞の匂いが上がってくる。
もちろん、和尚の脂っこい汗の匂いも。その度に、岩鉄和尚を感じるのだ。
師匠の最も恥ずかしいものを持ち歩くと、傲慢な師匠に勝ったような気分になれる。
和尚様の臭い尻とマラのことは全部弟子の私が知っていますよ、というふうにである。
悪いのは、くせえ褌をこしらえる和尚のほうなのだ。
そうしていつも私の鼻を楽しませるから、持ち歩いてしまうのだ。
 
和尚の褌を洗う役目は私。
だから、川へ行ったときに、持ち歩いていた古いほうを洗う。
新しい糞と小便の汚れと、古い糞と小便の汚れを嗅ぎ比べ、ときには一緒に鼻に当てて嗅ぎ回し、
最後には古い褌にこってり付いた糞の筋をくちゃくちゃと味わいながら、
真っ黄色から茶色みがかり出した小便の臭みにあえぎながら、果てる。
すえた苦みがたまらない。我が師匠の尻の苦み。
座禅を組む度にこの褌に臭い穴が押しつけられ、苦い糞がこびり付くのだ。
どうしてこんなに汚いんだろう。四十男にもなって。糞した後の尻に手が届かないのだろう。
ずぼらな方だから、もはや拭いていないのかもしれない。くせえ、にげえ。小便くせえ。
そんなことを思いながら、元は白だったはずの茶色くて臭い布に舌をはわせるとき、師匠がとてもいとおしく思える。
このくせえ和尚様のために、何でもして差し上げたくなるのだ。
汚した褌だって真っ白にして差し上げる。
川面に浮かべた褌に薄い黄色と茶色の染みがさっと広がるのを見ているのも楽しいものである。
 
そしてまた、新しい汚れ褌をたもとに入れて持ち歩く。
ふわっと匂う、親父の小便と糞。
寺の物陰で、本堂の中で、かわやで、そっと取り出して広げて嗅ぐ。ああ、くせえなあ。
夜、岩鉄和尚が奥さん相手にばんばんと腰を使う間も、嗅ぎながらこっそりと勇姿を眺める。すげ、マラも尻もくせえよお。
畑で草取りをする和尚のでかい尻の後ろで取り出して静かに嗅ぐ。どきどきするし、くせえくせえ。
こうして、私は毎日、親父様の恥ずかしい汚れ褌を楽しんでいるのである。